光照墓苑の歴史(明治の東京と墓地の成り立ち)

墓苑の成り立ち

なぜ、神楽坂・光照寺の墓地が若松町の宝祥寺境内にあるのか

明治6年(1873年)の火葬禁止令をきっかけに、宝祥寺の広い墓地が明治政府の管轄する共同墓地となり、光照寺を含む複数の寺院が持ち分を持つことになったためです。

江戸から明治へ ― 寺院墓地を取り巻く環境の変化

江戸時代、人々のお墓はほとんどが檀那寺の境内にありました。寺請制度のもとで、寺院が戸籍と葬送の両方を担っていたためです。ところが明治に入ると、この前提が短い期間に大きく崩れていきます。

慶応4年(1868年)の神仏判然令にはじまる神仏分離は、各地で廃仏毀釈を引き起こしました。さらに明治4年(1871年)正月の社寺領上知令(太政官布告第4号)によって、境内地を除く寺社の所領は国に接収されます。寺院にはわずかな禄が与えられたものの、その経済的な基盤は大きく揺らぎました。明治5年(1872年)には僧侶や神官によらない「自葬」が禁じられ、神葬祭のための墓地が別に設けられるなど、葬送そのものが国の政策の対象になっていきます。こうしたなかで、寺院の墓地は縮小の方向に向かっていました。

火葬禁止令と、東京の「どこに埋葬するのか」問題

そこへ追い打ちをかけたのが、明治6年(1873年)7月18日の太政官布告第253号、いわゆる火葬禁止令です。布告そのものは、驚くほど短いものでした。

火葬ノ儀自今禁止候條此旨布告候事

太政官布告第二百五十三号(明治6年7月18日)
明治6年7月18日の太政官布告第253号(火葬禁止令)を収めた太政類典の原本
火葬禁止令の原本。冒頭に「火葬ノ儀自今禁止候條此旨布告候事」と記されています。『太政類典・第二編・第二百六十八巻・教法二十・葬儀』より(国立公文書館デジタルアーカイブ/請求番号 太00492100)

火葬を仏教の葬法とみなす神道国教化の政策が背景にありましたが、布告に先立つ伺書を読むと、もう少し生活に即した事情も見えてきます。そこには、第九大区の千住駅のそばで里俗に「火葬寺」と呼ばれた地、そして第六大区深川の霊岸寺・浄心寺という、当時の東京の火葬場の名が挙げられ、「追々炎暑ニ向ヒ」人の健康の妨げにならないか、という警保寮(警察を所管した役所)からの申し出が発端であったことが記されています。

しかし東京では、すでに火葬が広く行われていました。江戸の時点で火葬の割合は全国平均を上回っており、全国統計が残る大正4年(1915年)でも、全国平均36.2%に対して東京は62.4%と大きな差があります。その東京で火葬が禁じられれば、すべてを土葬にするほかありません。土葬は一体ごとに広い面積を必要とします。人口が密集した市街地に、そんな土地はどこにもない ―― 「どこに埋葬するのか」が、ただちに現実の問題として持ち上がりました。

仏教界や東京府からは反対の建白書が相次ぎ、衛生の面からも火葬が望ましいという意見が出されます。結局この禁止令は、わずか2年足らずの明治8年(1875年)5月23日に撤回されました。都市部での土葬用地の不足が、撤回を後押しした大きな理由のひとつでした。

郊外に生まれた「共葬墓地」

この2年のあいだに、東京府は墓地の再編に踏み切ります。府は「墓地取扱規則」を定めて朱引内(旧江戸の市街地)の従来の墓地への埋葬を禁じ、埋葬してよい墓地を9か所に絞りました。そして明治7年(1874年)、当時の郊外にあたる青山・谷中・雑司ヶ谷・染井・亀戸に墓地を開き、同年9月1日から供用を開始します。これが日本で最初の公営墓地でした。

これらはもともと神葬祭のための墓地として出発しましたが、やがて宗旨・宗派を問わずすべての人が埋葬できる共葬墓地へと性格を変えていきます。今日の青山霊園・谷中霊園・雑司ヶ谷霊園・染井霊園は、いずれもこのときに生まれたものです。

朱引の際にあった、宝祥寺の広い墓地

「朱引(しゅびき)」とは、文政元年(1818年)に江戸幕府が地図上に朱色の線で示した江戸の範囲のことです。明治2年(1869年)2月には東京府があらためて朱引を定め直し、その内側を市街地、外側を郷村地と区分しました。市街地と郊外を分ける線、というわけです。

明治9年刊行の「明治東京全図」。皇居を中心とした市街地とその外側の郊外が描かれている
「明治東京全図」(市原正秀 編、明治9年〈1876年〉)。皇居を中心に家並みが密集する市街地が広がり、その外側は田畑や寺社地が占めています。共葬墓地が開かれた青山・谷中・雑司ヶ谷・染井・亀戸も、いずれもこの市街地の外側にありました。内閣文庫(国立公文書館デジタルアーカイブ/請求番号 177-0506)
「明治東京全図」に宝祥寺(金谷山 寳祥寺)の位置を赤丸で示した図。皇居の西北、家並みが途切れて田畑に変わるあたりに建っていることが分かる。内閣文庫(国立公文書館デジタルアーカイブ/請求番号 177-0506)に加筆

宝祥寺のある若松町は、宝永2年(1705年)に町奉行支配となって起立した町で、ちょうどこの境目 ―― 市街地の西のはずれにあたります。宝祥寺自身も、明暦の大火で市谷の旧境内を焼失したのち、寛文2年(1662年)にこの地へ移ってきた寺院で、拝領地3,000坪と伝えられる広い土地を持っていました。市街地からすぐの距離にありながら、まとまった土地がある。この条件ゆえに、宝祥寺の墓地もまた、明治政府の管轄する共同墓地として使われることになりました。

ご住職様からお伺いした寺伝によれば、元来は宝祥寺の土地でしたが、政府からの割当により30ヵ寺がそれぞれ50坪ずつを持ち合う共有地というかたちがとられたといいます。もっとも、実際に土葬を行ったのは10ヵ寺ほど。残る20ヵ寺分は使われないまま、戦後までそのままの状態で残されました。

戦後、宝祥寺による一括登記へ

転機は戦後に訪れます。日本国憲法が政教分離を定めたことで、国が寺社に土地を無償で貸し続けることができなくなりました。そこで昭和22年(1947年)、憲法施行の前日にあたる5月2日から「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」(昭和22年法律第53号)が施行されます。明治4年の上知令などで国有となっていた境内地を、宗教活動に必要なものに限って、寺社へ無償で譲り渡すか、時価の半額で売り払うという法律でした。

申請は全国で8万4千件あまり、うち寺院からのものが2万2千件を超えました。審査は占領下に始まり、主権回復後の昭和27年(1952年)末まで、およそ5年にわたって続きます。明治のはじめに取り上げられた土地が、80年近くを経て寺社の手に戻っていったのが、この時期でした。

同じころ、寺そのものの登記も動きます。昭和26年(1951年)4月3日、宗教法人法(昭和26年法律第126号)が公布・施行されました。寺院はそれ以前から法人ではありましたが、この新しい法律のもとで法人であり続けるには、あらためて規則の認証を受け、設立の登記をし直す必要がありました。手続きには期限も定められています。法人の登記が改まれば、それまで曖昧なままだった土地の名義も整えることになります。

30ヵ寺の共有地となっていたこの墓地も、こうした流れのなかで登記されることになりました。そこで、元来の所有者である宝祥寺が一括して登記し、引き続き墓地を使いたいという寺院には、従前のまま利用してもらうかたちが取られました。

その後、墓地を使っていなかった寺院からは「もともと宝祥寺の土地であるから」と順次返還が申し出られ、いまも墓地を使い続けている寺院とは当時のまま良い関係が保たれています。

神楽坂の光照寺の墓地が、若松町の宝祥寺の境内にあるのは、この150年の複雑な経緯によるものです。この歴史が生んだ特別なかたちの墓地として、光照墓苑は今日も、宗旨や宗派を問わず、どなたにも開かれた場所であり続けています。

光照墓苑と宝祥寺墓地の年表

光照墓苑と宝祥寺墓地の年表
寛文2年(1662年)明暦の大火で焼失した宝祥寺が、市谷から現在の若松町へ移転。拝領地3,000坪と伝わる
文政元年(1818年)江戸幕府が「朱引」を定め、江戸(御府内)の範囲を明示
慶応4年(1868年)神仏判然令。各地で廃仏毀釈が起こる
明治2年(1869年)東京府が朱引を定め直し、内側を市街地、外側を郷村地とする
明治4年(1871年)社寺領上知令(太政官布告第4号)。境内地を除く寺社領が国に接収される
明治5年(1872年)自葬の禁止、神葬祭墓地の設定
明治6年(1873年)7月18日、太政官布告第253号により火葬を全面禁止
明治7年(1874年)青山・谷中・雑司ヶ谷・染井・亀戸に墓地が開かれ、9月1日から供用(日本初の公営墓地。のちに宗旨を問わない共葬墓地へ)
明治8年(1875年)5月23日、火葬禁止令が撤回される
明治17年(1884年)「墓地及埋葬取締規則」(太政官布達第25号)。共葬墓地を原則としつつ、慣習のある寺院墓地も認められる
昭和22年(1947年)「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」施行。上知令で国有となった境内地が、寺社へ譲与・半額売払いされていく(審査は昭和27年末まで)
昭和23年(1948年)「墓地、埋葬等に関する法律」(墓埋法)公布・施行
昭和26年(1951年)宗教法人法公布・施行。寺院は規則の認証と設立の登記をやり直すことに
戦後共有地となっていた墓地を、元来の所有者である宝祥寺が一括して登記
平成27年(2015年)光照寺の持ち分を「光照墓苑」として販売開始

この歴史が、いまの光照墓苑をかたちづくっています

明治17年(1884年)の「墓地及埋葬取締規則施行細目標準」は、共葬墓地を原則としながらも「従前別段ノ慣習アルモノハ此限ニアラス」として、自宗派の檀信徒に限る寺院墓地を認めました。以来、日本の墓地は公営の共葬墓地と寺院墓地という二重の構造のまま今日に至っています。光照墓苑は、そのどちらにもきれいには収まらない、明治の東京が生んだかたちの名残りといえます。

墓苑を所有するのは光照寺、日々の境内管理は宝祥寺、そして墓地の販売は石材店の株式会社中山石渠。この三者が役割を分け合う成り立ちのおかげで、光照墓苑はどちらのお寺の檀家になる必要もなく、宗旨・宗派も問わず(在来仏教・神道の方)お求めいただけます。お寺の境内にある墓地の安心感と、民営霊園のような自由さが両立しているのは、150年前の事情がそのまま今に残っているからにほかなりません。

出典・参考資料

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